舞楽

舞楽(ぶがく)は、雅楽の演奏に伴って舞われる舞のうち、唐楽による左方の舞(左舞)と、高麗楽を主体とする右方の舞(右舞)から構成される楽舞の上演形式である[1][2]。中国大陸や朝鮮半島などから伝来した舞と音楽は日本で受容・改作され、平安時代には左方と右方に分かれた体系、および左右の演目を組み合わせる番舞(つがいまい)の形式が整えられた[3]。
左方と右方では、伴奏に用いる楽種と楽器編成、装束の基調色、登場方向、舞と音楽との対応などに違いがある[2][3]。また舞は、平舞(文舞)・武舞・走舞・童舞という舞姿のほか、一人舞・二人舞・四人舞・六人舞など舞人の数によっても区別される[1]。用いる面、装束、舞具も曲ごとに異なる[4]。
明治維新後、舞楽は再編された宮中雅楽の一部として宮中行事や外国賓客の饗応に組み込まれ、博覧会や公開演奏でも上演された[5]。第二次世界大戦後は宮内庁式部職楽部による公開演奏と海外公演が行われ、1959年(昭和34年)には同楽部初の海外公演となるアメリカ合衆国公演が実施された[6][7]。
宮内庁式部職楽部が演奏する舞楽は、1955年(昭和30年)に国の重要無形文化財に指定された「雅楽」の技芸に含まれる[8]。2009年(平成21年)には「雅楽」がユネスコ無形文化遺産の代表一覧表に記載され、舞楽はその構成の一つとして説明される[9]。
定義と範囲
[編集]「舞楽」は広義には雅楽の伴奏で舞われる舞を指し、平安時代には単に「舞」と称された[10]。現代の雅楽の演奏形態では、唐楽を伴奏とする左舞と、主として高麗楽を伴奏とする右舞を合わせて舞楽と称する。神楽歌、東遊、久米舞、倭舞などの歌を伴う国風歌舞は、この意味での舞楽には含まれない[2]。
唐楽には、舞を伴う舞楽曲と、舞を伴わず管絃として奏する曲とがある。これに対し、現行の高麗楽の楽曲はいずれも舞を伴う[10]。管絃では唐楽を三管・両絃・三鼓で奏するのに対し、通常の舞楽では琵琶・箏の絃楽器を除き、管楽器と打楽器によって舞を伴奏する[2][11]。ただし、管方に琵琶・箏を加えて奏する「管絃舞楽」と呼ばれる形態もある[12]。
「左方」「右方」は、楽曲の系統だけでなく、舞、伴奏する楽人(管方)、装束、登退場、舞台上の位置などを組織する区分でもある[3]。
上演の体系
[編集]左方と右方
[編集]舞楽を左方と右方に分ける基本的な基準は、平安時代の再編過程で整理された楽舞の系統である。中国大陸・中央アジア・インドなどに由来する楽舞を中心とする唐楽系を左方、朝鮮半島や渤海などに由来する楽舞をまとめた高麗楽系を右方とする[13][3]。外来の楽舞がそのまま二群へ保存されたのではなく、平安時代に日本の宮廷社会で改作・新作・整理が進むなかで、左右に分かれた上演体系が形成された[3]。
左右は由来の区別にとどまらず、伴奏、装束、登場方向、舞の構成に対称的な差異をもつ。現行の基本形は次のとおりである[2][3]。
| 項目 | 左方の舞(左舞) | 右方の舞(右舞) |
|---|---|---|
| 主な系統 | 中国大陸・中央アジア・インド などに由来する楽舞を中心とする |
朝鮮半島・渤海 などに由来する楽舞を中心とする |
| 伴奏 | 原則として唐楽 | 主として高麗楽 |
| 管楽器 | 笙・篳篥・龍笛 | 篳篥・高麗笛(笙は用いない) |
| 主な打楽器 | 鞨鼓・太鼓・鉦鼓 | 三ノ鼓・太鼓・鉦鼓 |
| 絃楽器 | 原則として用いない | 原則として用いない |
| 装束の基調色 | 原則として赤色などの暖色系 | 原則として緑色などの寒色系 |
| 登場方向 | 舞台後方の左側 | 舞台後方の右側 |
| 舞と音楽 | 旋律に合わせて振りが付けられ、 舞と楽曲の開始・終了が一致する |
リズムの型に合わせて振りが付けられ、 旋律と振りに固定した対応関係をもたない |
表に示した相違には例外がある。通常の舞楽では絃楽器を用いないが、琵琶・箏を加える管絃舞楽の例がある[12]。また、右舞には唐楽を伴奏とする演目もあり、《陪臚》は右舞でありながら赤系統の装束を用いる[14]。
似た舞姿をもつ左右の演目を一組とする上演形式を番舞(つがいまい)といい、左右への二分化に伴って成立した[3]。一組のうち後から、先の舞に対して演じるものを「答舞」(とうぶ)と呼ぶ[15]。
舞姿と人数
[編集]現行の舞楽は、舞の動き、装束、役柄などから、平舞・武舞・走舞・童舞の四種の舞姿に分けて説明される[1][4]。これは舞人の数による分類とは別の区分であり、同じ平舞にも四人舞・六人舞などがある。
| 舞姿 | 主な特徴 | 一般的な舞人数 | 装束・面の傾向 | 代表的な演目 |
|---|---|---|---|---|
| 平舞 (ひらまい) |
文舞(ぶんのまい)ともいう。抽象的な所作を主体とし、ゆるやかなテンポで舞う。 | 四人または六人が多い | 襲装束または蛮絵装束を用いるものが多い。左舞では面を用いず、右舞には面を着ける曲もある | 《萬歳楽》 《春鶯囀》 《延喜楽》 《仁和楽》[4] |
| 武舞 (ぶのまい) |
太刀を帯び、楯・鉾などの武具を持ち、陣形を変えながら舞う | 一人または四人 | 曲ごとの別装束を用いる | 《太平楽》 《陪臚》[4] |
| 走舞 (はしりまい) |
走物(はしりもの)ともいう。一人または二人の舞人が舞台上を活発に動く。 | 一人または二人 | 裲襠を中心とする動きやすい装束と、曲固有の面を用いるものが多い | 《蘭陵王》 《納曽利》 《還城楽》 《蘇莫者》[4] |
| 童舞 (わらわまい) |
年少者が舞う。平安時代には、成人の舞を童が演じた例も記録される。 | 現行曲では四人 | 原則として面を用いず、顔を白く化粧する | 《迦陵頻》 《胡蝶》[16][4] |
平舞は現行舞楽曲の過半を占め、複数の舞人が互いに対応する位置を保ちながら、同じ所作を揃えて進めるものが多い[1]。武舞は武具と陣形、走舞は一人または二人の活発な動きと仮面、童舞は年少者による舞を特徴とする[4]。
舞人の数によっては、一人舞・二人舞・四人舞・六人舞などと呼ぶ。複数人で舞う場合も、基本的には舞人全員が同じ所作を行うが、隊形、向き、舞台上の位置によって対称的な構成をつくる[10]。
歴史
[編集]外来楽舞の受容
[編集]古代日本には、朝鮮半島や中国大陸などとの交流を通じて、異なる系統の歌舞や音楽が段階的に伝来した。701年(大宝元年)に制定された大宝律令では、治部省に雅楽寮が置かれ、外来系・在来系の歌舞を担う人員と教育制度が整えられた[17]。731年(天平3年)の定員改定では、唐楽・高麗楽のほかに、百済楽・新羅楽・度羅楽などが別個の種目として扱われていた[18]。
これらの楽舞は、宮廷の儀礼と饗宴に加え、大寺院の法会でも演じられ、雅楽寮では楽人の養成と伝習が制度化された[19][20]。
平安時代の再編
[編集]平安時代には、外来楽舞の選択、改作、復曲、新作が進み、林邑楽・天竺楽などを含む諸系統が唐楽と高麗楽へ整理された。唐楽では六調子を基礎とする楽曲体系が形成され、舞と音楽の構成も日本の宮廷儀礼に即して改められた[21]。この過程で、唐楽系を左方、高麗楽系を右方に配し、左右の演目を組み合わせる番舞の体系が成立した[3]。
この再編はしばしば平安初期の楽制改革と総称されるが、その時期と過程については研究上の議論がある。制度改革はあくまでも後世の研究者による概念であり、その時期については、嵯峨朝から仁明朝前後の一時期に行われたとする説、左右両部制と番舞が段階的に形成されて一条朝までに制度が整ったとする説、仁明朝を起点として約1世紀から1世紀半をかけて進んだとする説がある[22]。
中世の伝播と変容
[編集]中世になると、宮廷と京都・南都の大寺社を中心としていた楽舞は、武家政権や地方寺社にも受容された。初期鎌倉幕府では、鶴岡八幡宮寺の神事整備に伴って京都の地下楽人が招かれ、楽曲の教授や秘曲伝授が行われた。神奈川県立歴史博物館の渡邊浩貴は、この受容形態を「楽人招請型」と呼び、その基盤には京都社会との関係をもつ下級官人や御家人がいたと論じている[23]。
伝播と並行して、演奏内容にも変化が生じた。大陸から伝来した舞楽には当初、「詠」または「囀」と呼ばれる歌唱部分を含むものがあったが、のちに歌唱そのものが失われ、近代には形式上の痕跡を残すのみとなった[24]。
中世末から近世
[編集]
歴史学者の山田淳平は、中世末から近世初頭にかけての舞楽伝承を、戦乱による衰退と一度の復興という単線的な過程とは捉えていない。天正期以前に南都と京都を中心としていた奏演体制には天王寺の楽人が加わり、天正期の宮中奏楽、慶長期の豊国社祭礼などを通じて三地域の楽人を動員する体制が形成されたと論じている[25]。元和期以降には徳川将軍家の祭祀・法会も継続的な奏演の場となり、京都方・南都方・天王寺方からなる三方楽所が形成された[25]。
この体制のもとで、楽人は朝廷、幕府、寺社の複数の場で奏楽と伝授に携わった。楽人集団の活動は、所領・扶持や参勤などの制度によって支えられた[26]。
明治維新と近代化
[編集]明治維新後、三方楽所などの楽人は新たな宮中雅楽制度へ統合され、東京を中心とする奏演体制が再編された。東京への移行直後には舞楽を上演するための人的・物的基盤も十分には整っておらず、1869年(明治2年)、来日したイギリス王族エディンバラ公アルフレッドの接遇に舞楽を用いる案が出された際には、東京にまだ楽人が東上しておらず、舞台・装束も調達できないことから実現しなかった[27]。
1871年(明治4年)の大嘗祭後の豊明節会では《萬歳楽》《太平楽》が演じられ、東京における近代の舞楽上演の画期となった[27]。翌1872年以降、新年宴会での舞楽上演が恒例化し、外国人教師や外国賓客の饗応など、宮中の恒例行事以外でも舞楽が用いられた[28]。1870年代後半には、新年宴会に舞楽、天長節に洋楽、紀元節に久米舞を配するなど、儀礼ごとの演奏種目も整理された[29]。
舞楽はまた、近代における雅楽の公開化とも結びついた。1873年(明治6年)の京都博覧会では、京都出張雅楽課が内外の観覧者を対象として、30日間にわたり一日8番の舞楽公演を行った[30]。1879年(明治12年)以降には雅楽稽古所の春秋の楽舞大演習が定例化し、教育博物館や内国勧業博覧会などでも舞楽が上演された[5]。
戦後と国際化
[編集]第二次世界大戦後、宮内庁式部職楽部は宮中儀礼での奏演を継続しながら、一般向けの公開演奏と海外公演を進めた。1955年に同楽部の雅楽が重要無形文化財に指定された際、舞楽もその技芸の構成部分として保護の対象となった[8]。1956年(昭和31年)からは、皇居内の楽部で文化団体、在日外交団、一般の参観者に向けた演奏会を春秋に開催している[31]。
1959年のアメリカ公演は、同楽部にとって初の海外公演であった。音楽学者の寺内直子は、同公演が雅楽・舞楽を国際的な舞台芸術として提示するとともに、戦後日本の文化外交の一端を担ったと論じている[6][7]。国内では、1966年(昭和41年)の国立劇場開場記念公演に雅楽が組み込まれ、翌1967年から同劇場で舞楽公演が行われた[32]。
舞と音楽
[編集]番組と一曲の構成
[編集]舞楽には、演奏の順序、奏法、装束などについて一定の作法があり、これらを「舞楽作法」と呼ぶ[11]。その構成には、複数の演目からなる番組全体の構成と、個々の演目の内部構成がある。番組全体の基本形では、左右の舞人が鉾を振る《振鉾》三節を冒頭に置き、左舞と右舞を番舞として交互に演じ、退出の楽《長慶子》で終える[11]。実際の上演では、演目数や目的に応じて一部が省略されることもある[33]。
個々の舞楽曲では、舞の中心となる曲を「当曲」(とうきょく)といい、その前後に前奏、登場、退場などの楽を配して一連の構成(一具)とする。舞人は登場の楽に合わせて出手を舞い、所定の位置についてから当曲を舞い、当曲の後は入手を舞って退場する。楽屋から舞台への移動と舞台からの退出も、音楽を伴う上演の一部として組み込まれている[34]。
曲によって楽章構成は異なる。唐楽の舞楽曲には当曲とは別の登退場曲をもつものが多いのに対し、高麗楽では当曲を登退場中にも反復する曲が多く、前奏、音取、破・急、重吹などの有無も曲ごとに異なる[34]。現行曲における一具の例は次のとおりである。
| 演目 | 左右・舞姿 | 主な進行 | 構成上の特徴 |
|---|---|---|---|
| 《萬歳楽》 | 左方・平舞 | 平調調子(登場・出手)→当曲→平調調子(退場・入手)→吹止句 | 同じ調子を登場と退場に用いる[35] |
| 《陵王》 (蘭陵王) |
左方・走舞 | 小乱声→陵王乱序(登場・出手)→沙陀調音取→当曲→安摩乱声(退場・入手)→吹止句 | 前奏、登場曲、音取、当曲、退場曲を別々に備える[34] |
| 《貴徳》 | 右方・走舞 | 高麗小乱声→高麗乱声(登場・出手)→小音取→当曲破→当曲急→退出・吹止句 | 破と急の二楽章を備え、専用の退場曲を置かずに吹止句で終える[36] |
演奏法と拍子
[編集]舞楽では、同じ唐楽曲を管絃として奏する場合と比べても、舞人が動きを合わせやすいよう拍を明確にし、一般に速いテンポで力強く奏する。この演奏法を「舞楽吹」(ぶがくぶき)といい、ゆるやかなテンポと楽器間の間合いを重んじる「管絃吹」(かんげんぶき)と区別する[37]。舞楽の編成は通常、絃楽器を除き、大太鼓・大鉦鼓を含む管楽器と打楽器を中心とする[37]。
通常の舞楽では絃楽器を加えないが、琵琶・箏を管方に加えて奏する形態は「管絃舞楽」と呼ばれる[12]。《輪台》《青海波》には両絃を加える作法が伝えられており[12]、近代にも管絃舞楽の上演例がある。1878年(明治11年)の雅楽稽古所開業式に伴う公開演奏では、《萬歳楽》《貴徳》が琵琶・箏を加えて演じられた[38]。
一具の内部では、自由なリズムの部分と拍節的な部分とが対照をなす。調子・音取・乱声や、序・破・急を備える曲の「序」は、定まった拍節をもたずに奏されることが多く、拍節的な当曲などに先立つ。拍節的な部分には早・延・只、八拍子・四拍子などの区分があるが、雅楽でいう「拍子」は太鼓や鞨鼓の打ち方などにも関わる多義的な語であり、西洋音楽の拍子記号と同一ではない。また、序・破・急の三楽章がすべての舞楽曲に備わるわけではなく、楽章の組合せと反復法は演目によって異なる[39]。
舞と音楽との結びつきにも左右で差がある。左舞では基本的に旋律の進行に合わせて舞の手が配され、舞と当曲の開始・終了が一致する。右舞では旋律そのものより一定のリズム型に合わせて舞い、旋律と振付の各部分には固定的な対応関係がなく、舞と音楽の開始・終了が一致しないこともある[3]。
舞の型と舞譜
[編集]舞楽の動きには、左右に共通する型、左舞・右舞それぞれに共通する型、特定の曲だけに用いる型がある。登場の仕方は出手(左舞では「でるて」、右舞では「ずるて」)、退場の仕方は入手(いるて)と呼ばれる。複数人の舞では、上臈から順に登場して所定の位置につき、退場時には一斉に入手を舞ってから順次舞台を離れる[40]。
個々の動作の型は「舞の手」と総称され、首、手、足、屈伸の使い方に、舞人の向き、位置、歩行などが組み合わされる[40]。これらは舞譜に、型の順序や音楽の進行との対応として記される。平安時代末期の舞人・狛光時は、伝承されていた舞を舞譜に記した人物とされる[41]。日本芸術文化振興会は、舞譜を稽古で習得した舞を想起するための記録と説明しており、型と型をつなぐ動作や間合いまでは記録されないとしている[40]。
曲目
[編集]代表的な現行曲
[編集]宮内庁式部職楽部に伝承される現行曲では、左舞はすべて唐楽を伴奏とし、右舞は高麗楽を主体としながら、《陪臚》《還城楽》《抜頭》のように唐楽を右方へ編入した曲も含む[42][14]。次表は全曲目の一覧ではなく、左右、舞姿、人数、面、装束、舞具の組合せを比較できる代表的な四組を示す。ここでいう現行曲は同楽部を中心とする現行伝承の曲目であり、楽書に記録された廃絶曲や寺社・地域固有の曲目を含まない[43]。
| 曲名 | 左右・楽種(調) | 舞姿・人数 | 面 | 主な装束・舞具 | 主な番舞 |
|---|---|---|---|---|---|
| 《萬歳楽》 | 左方・唐楽(平調) | 平舞・四人 (六人の場合もある) |
用いない | 襲装束・鳥甲。舞具なし | 《延喜楽》[43][42] |
| 《延喜楽》 | 右方・高麗楽(高麗壹越調) | 平舞・四人 | 用いない | 襲装束・鳥甲。舞具なし | 《萬歳楽》[43][14] |
| 《陵王》 (蘭陵王) |
左方・唐楽(壹越調) | 走舞・一人 | 陵王面 | 毛縁の裲襠装束・桴 | 《納曽利》[43][42] |
| 《納曽利》 | 右方・高麗楽(高麗壹越調) | 走舞・二人 (一人の場合もある) |
龍を表す納曽利面 | 毛縁の裲襠装束・銀色の桴 | 《陵王》[43][44] |
| 《太平楽》 | 左方・唐楽(太食調) | 武舞・四人 | 用いない | 甲冑装束・鉾・太刀 | 《陪臚》など[43][45] |
| 《陪臚》 | 右方・唐楽 (破は平調、急は壹越調) |
武舞・四人 | 用いない | 赤系統の裲襠装束・太刀・鉾・楯 | 《太平楽》[43][14] |
| 《迦陵頻》 | 左方・唐楽(壹越調) | 童舞・四人 | 用いない (白化粧) |
専用の童装束・鳥の羽・天冠・銅拍子 | 《胡蝶》[43][42] |
| 《胡蝶》 | 右方・高麗楽(高麗壹越調) | 童舞・四人 | 用いない (白化粧) |
専用の童装束・蝶の羽・天冠・山吹の花枝 | 《迦陵頻》[43][14] |
この四組はいずれも、平舞・走舞・武舞・童舞を左右で組み合わせた番舞である。ただし番舞の組合せは一曲につき一つに固定されるとは限らず、《萬歳楽》には《地久》、《太平楽》には《狛桙》《古鳥蘇》などを合わせる例もある[42][45]。《陪臚》は右舞でありながら唐楽を伴奏し、赤系統の装束を着ける例外である[14]。
《納曽利》は二人舞を基本とし、一人で舞う場合を《落蹲》と呼ぶが、奈良の伝承では逆に二人舞を《落蹲》、一人舞を《納曽利》と呼ぶ[44]。
廃絶曲・遠楽・復曲
[編集]歴史上の舞楽曲には、曲名や楽譜の一部だけが残る曲、音楽は残るが舞が伝わらない曲、伝承そのものが途絶えた曲がある。こうした曲は、戦乱による楽譜・伝承基盤の喪失、演奏慣行の変化、近代の曲目選定などを通じて生じた[46]。
『雅楽事典』は「遠楽」(えんがく)を、1876年(明治9年)と1888年(明治21年)の二度の撰定に採られず、廃絶した曲と定義しており、近代の撰定を基準とする分類である[47]。曲名のみが残る曲、管楽器譜・琵琶譜・舞譜・図像の一部が残る曲など、残存資料の組合せは曲ごとに異なる[46]。
近現代には、古楽譜、楽書、図像、古楽器などを照合して廃絶曲を復曲し、国立劇場などで演奏する試みが行われてきた[46]。楽曲の旋律・合奏法を構成する「復曲」と、舞の手、型の間をつなぐ動作、装束・面・舞具、登退場までを含む舞楽一具の「復元」は異なる作業である。舞譜には動作の細部が記されないため、舞の復元には史料で確定できない動作の解釈や補作が含まれる[40][46]。
舞台と視覚文化
[編集]舞台と配置
[編集]舞楽は、高舞台(たかぶたい)または敷舞台を中心とする舞台で上演されることが多い。標準的な高舞台は、高く組んだ舞台の中央に緑色の敷舞台を置き、周囲を白布で縁取り、朱塗りの高欄と階段を設ける。敷舞台は牡丹唐草文を織り出した三間四方(約5.45メートル四方)の敷物である[48]。このほか、石舞台、芝舞台、水上の浮舞台、船上の舞台などがあり、正式な舞台を設けない場でも上演できる[48]。
伝統的な舞台は、南面する貴人の正面に置くため北を正面とする。この場合、観客から見て左側が東、右側が西となり、左方の舞人は東側、右方の舞人は西側から登退場する。舞台の両側には大太鼓と大鉦鼓を配する[48]。現代のホール公演では、会場条件に応じて方位や配置が変更される[48]。
装束
[編集]舞楽の装束は、左右の区分、舞姿、役柄、演目に応じて色や形が異なる[49]。左方では赤色などの暖色系、右方では緑色などの寒色系を基調とするのが原則であるが、個別曲には例外がある[50]。現行装束の主な類型は次のとおりである。
| 類型 | 概要 | 上演上の特徴 |
|---|---|---|
| 襲装束 (常装束・唐装束) |
現行曲のおよそ半数に用いる代表的な装束 | 幾重にも衣を重ね、平舞を中心に用いる。面を用いない曲が多く、管方もこれを略して着用する[51] |
| 蛮絵装束 | 宮中の警備を担った衛府の武官装束に由来する装束 | 向かい合う獅子などの丸文を袍に施す。襲装束より軽快で、この装束を用いる演目では面を用いない[52] |
| 別装束 (別様装束) |
特定の一演目に固有の装束の総称 | 曲ごとに構成が異なる。貫頭衣状の裲襠を用いるものを裲襠装束といい、面、甲、太刀、鉾、楯、桴などを組み合わせる曲がある[53] |
| 童装束 | 童舞で年少の舞人が着用する装束 | 童舞専用のものと、成人用の襲装束・蛮絵装束・裲襠装束などを小さく仕立てたものがある。原則として面を用いず、白塗りの化粧をする[54] |
これらの装束は、伝来当初の形をそのまま保存したものではない。古い図像に見える大陸系の装束へ公家装束の形式が融合し、平安時代後期には有職文様も取り入れられた。宮内庁三の丸尚蔵館の展覧会図録では、現行に近い文様は、近世の復興時に制作された装束を規範として整ったとされる[55]。
面と舞具
[編集]
舞楽面はすべての曲で用いるものではなく、演目に応じて人、動物、架空の存在などを表す。形、大きさ、色、表情によって役柄や感情を視覚化し、目や顎が動く面もある。多くは木製で、軽く加工しやすい桐のほか、檜や樟も用いられる[56][50]。
舞人が手にする鉾、楯、太刀、桴、笏、枝などは舞具と総称される。同じ種類の舞具でも曲により大きさ、色、形、装飾、扱い方が異なり、動作の型や演目のモチーフと結びつく。たとえば《還城楽》の木蛇は蛇を捕らえる所作の対象となり、《打球楽》の球杖と球子は打毬の動きを表す[57]。
図像と意匠
[編集]
舞楽は絵画・工芸の主題や意匠にもなった。中世には《春日権現験記絵》などの社寺縁起、舞楽図巻、舞絵に描かれ、近世には俵屋宗達筆《舞楽図屏風》をはじめとする屏風や舞楽図巻が制作された。舞楽の人物、装束、楽器は漆工品、香道具、婚礼調度、染織などの文様にも取り入れられた[55]。
伝承と上演の場
[編集]舞楽は、宮廷、寺院法会、神社祭礼、武家儀礼、地域の民俗芸能、近代以降の公開公演など、異なる制度と目的をもつ場で担われてきた[25]。同じ曲名でも、担い手、楽器編成、振付、番組、舞台、宗教儀礼との関係は伝承ごとに異なる場合がある[58]。
宮廷・楽所と公開公演
[編集]前近代の主要な伝承主体には、京都の大内楽所、奈良の南都楽所、四天王寺の天王寺楽所があり、近世には三方楽所として朝廷・幕府・寺社の奏演を分担した[25]。明治維新後、三方の楽人が東京の宮中雅楽制度へ統合されたことで、現在の宮内庁式部職楽部へつながる集中的な伝承体制が形成された[29]。一方、奈良と四天王寺では、旧楽所の組織が解体された後も、寺社祭礼を基盤として伝習組織が再建され、地域ごとの演奏法を伴う伝承が続いた[59][58]。
宮内庁式部職楽部は宮中儀礼で雅楽・舞楽を奏するほか、皇居内での公開演奏、国立劇場や各地での公演、海外公演を行ってきた[60][31][32]。ホール公演では舞台の方位や配置を会場に合わせ、番組も一具または複数の代表曲を選んで構成する[48][33]。
寺院法会と神社祭礼
[編集]寺院法会と神社祭礼は、古代以来、舞楽の主要な上演・伝習の場であった[19][23]。寺社における舞楽は、読経・声明、神饌、行列などと組み合わされ、儀礼の時間と空間のなかに配置されることがある[58]。童舞の《迦陵頻》《胡蝶》も寺院法会で演じられる[42][14]。
四天王寺の聖霊会では、六時堂前の石舞台において、惣礼伽陀や四箇法要に《振鉾》《蘇利古》《菩薩》《獅子》《迦陵頻》《胡蝶》などを織り込む舞楽法要が行われる。「聖霊会の舞楽」は、天王寺楽所の系譜と四天王寺固有の演技・演奏法を伝えるものとして、雅楽全体の重要無形文化財指定とは別に、国の重要無形民俗文化財に指定されている[58]。
奈良では、春日大社・興福寺などに奉仕した南都の楽人が舞楽を担った。明治初期に旧南都楽所の公的な機能が失われた後も、春日社の祭祀と春日若宮おん祭を軸に伝習組織が再建され、南都の舞楽伝承が維持された[59]。《納曽利》と《落蹲》の呼称のように、奈良の伝承には宮内庁式部職楽部を基準とする現行説明と異なる点もある[44]。
地域の舞楽
[編集]
文化財行政では、地域の舞楽の一部が民俗芸能として扱われ、宮内庁式部職楽部が伝承する「雅楽」とは別の単位で指定されている[61][62]。
山形県の林家舞楽は、《太平楽》《陵王》《納曽利》など宮廷舞楽と共通する曲名を伝える一方、現行の楽器編成は龍笛・太鼓・鉦鼓を中心とし、神職家と地域の舞人による独自の伝承形態をもつ[61]。秋田県の大日堂舞楽では、四集落の能衆がそれぞれ異なる九演目を分担し、笛・太鼓による囃子、仮面、採物を用いるなど、地域で再編された曲目と演技を伝える[62]。
史料・研究・復元
[編集]楽書と舞譜
[編集]舞楽の歴史と演技を伝える史料には、楽書、舞譜・器楽譜、宮廷の日記や寺社の儀式書、絵巻・屏風などの図像、装束・面・楽器といった伝世品がある。楽書や儀式書には曲名・番組・上演の場が、舞譜には舞の手と順序が、図像や伝世品には舞台配置、装束、面、楽器などの形態が記録される[55][63]。
鎌倉時代の代表的な楽書である『教訓抄』は、狛近真が1233年(天福元年)に著した全10巻の書である。第1巻から第5巻を中心に左方・右方の舞の伝承を記し、第7巻には舞の手名や演技上の注意を収めるほか、管楽器・打楽器の奏法や譜にも及ぶ。曲の由来や故実に加え、どの楽家から何を習得したかという伝承関係も記されている[64]。
舞の手を文字で配列する舞譜は、平安時代末期の舞人・狛光時が作成したものにさかのぼるとされる[41]。音楽学者の田鍬智志によれば、その系統を引く『掌中要録』は、光時の舞譜を基礎に後代の楽人が書写・改訂を重ねた集成である。現存本には二つの系統があり、いずれにも本文の順序が乱れた箇所がある[63]。このほか『舞楽要録』も伝存し、『群書類従』管絃部の巻345に収録されている[65]。
史料の照合と復元
[編集]舞譜は手の名称と配列を伝える一方、型から型へ移る動作、身体の角度、間合いなどをすべて固定するものではない[40]。田鍬は、同じ手名でも、その語が示す実際の動作は時代や伝承によって異なる可能性があると指摘している[63]。
復元研究では、複数の舞譜と楽書、器楽譜、図像などを相互に照合する。田鍬らによる《萬歳楽》の試演では、『掌中要録』の複数の舞譜を『教訓抄』『続教訓抄』『仁智要録』『管眼集』『古譜律巻』と比較し、現行では舞われない部分を含む構成を検討した。田鍬らは、伝本間の差異や動作の解釈余地が残るため、この試演を史料から一意に導かれた古形ではなく、一つの解釈として説明している[63]。
絵巻・屏風は舞台、姿勢、装束、楽器の配置を、装束・面・楽器の伝世品は材質、構造、文様を検討する手がかりとなる[55]。近代以降には写真、録音、映像、公演記録も加わり、特定の時期・伝承主体による上演を比較できるようになった[32][63]。
文化財と現在
[編集]指定・記載
[編集]国の重要無形文化財として1955年5月12日に指定された名称は「雅楽」であり、認定区分は総合認定である。宮内庁式部職楽部の楽師は、その保持者として認定されている[8][31]。雅楽の演奏形式は管絃・舞楽・歌謡に分けられ、舞楽だけを独立して指定したものではない[31]。ユネスコの無形文化遺産代表一覧表でも、2009年に記載された名称は「Gagaku」であり、その構成の一つとして大陸系の器楽と儀礼舞踊からなる舞楽が説明されている[9]。
これに対し、寺社や地域で伝承される舞楽には、雅楽の指定とは別に、個別の民俗芸能を単位とする指定・記載がある。主な指定・記載は次のとおりである。
| 制度 | 名称 | 舞楽との関係 |
|---|---|---|
| 国の重要無形文化財 | 雅楽 | 宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽を対象とし、舞楽をその構成部分に含む[8] |
| ユネスコ無形文化遺産 代表一覧表 |
Gagaku | 雅楽全体を対象とし、舞楽を三つの演奏形態の一つとして含む[9] |
| 国の重要無形民俗文化財 | 聖霊会の舞楽、 林家舞楽、 大日堂舞楽 など |
寺社祭礼・地域社会における個別の伝承を、それぞれ独立した民俗芸能として指定する[58][61][62] |
| ユネスコ無形文化遺産 代表一覧表 |
Dainichido Bugaku | 大日堂舞楽を地域固有の民俗芸能として「Gagaku」とは別に記載する[66] |
現代の継承と公開
[編集]現在の舞楽は、宮内庁式部職楽部だけでなく、南都・四天王寺の伝習組織、寺社の祭礼、地域の保存団体など、それぞれ異なる制度と上演環境のもとで継承されている[59][58][61][62]。また、国立劇場の公演記録・鑑賞教材や、大学研究機関による映像付きの復元研究など、上演と研究成果を記録・公開する方法も広がっている[32][63]。ユネスコは雅楽を、長期にわたり再創造されながら伝えられてきた芸能として説明している[9]。
脚注
[編集]出典
[編集]- 1 2 3 4 鳥居本 2007, pp. 11–12.
- 1 2 3 4 5 6 皇室編集部 2008, pp. 27–28.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “なりたち:左方と右方”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 “なりたち:舞の姿”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 塚原 2009, pp. 84–85.
- 1 2 寺内 2025, pp. 121–125.
- 1 2 寺内 2025, pp. 143–145.
- 1 2 3 4 “雅楽”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “Gagaku” (英語). UNESCO. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 鳥居本 2007, p. 11.
- 1 2 3 東儀・東儀 1970, p. 78.
- 1 2 3 4 東儀・東儀 1970, p. 92.
- ↑ 皇室編集部 2008, p. 27.
- 1 2 3 4 5 6 7 “右舞:現行の演目”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ 雅楽事典 1989, p. 68.
- ↑ 鳥居本 2007, p. 12.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 15–34.
- ↑ 鳥居本 2007, p. 34.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 28–34.
- ↑ 渡邊 2020, p. 1.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 105–109.
- ↑ 渡辺あゆみ 2008, pp. 460–461.
- 1 2 渡邊 2020, pp. 1–2.
- ↑ 磯 2004, pp. 11–21.
- 1 2 3 4 山田 2024, pp. 20–40.
- ↑ 山田 2024, pp. 42–136.
- 1 2 塚原 2009, pp. 83–84.
- ↑ 塚原 2009, p. 84.
- 1 2 塚原 2009, pp. 33–35.
- ↑ 塚原 2009, pp. 61, 85.
- 1 2 3 4 “雅楽”. 宮内庁. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “宮内庁式部職楽部 公演記録”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 “上演のかたち:上演の型と番舞”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 “上演のかたち:当曲と舞楽曲の構成”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ “作品と鑑賞:萬歳楽”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ “作品と鑑賞:貴徳”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 “なりたち:舞楽と器楽演奏”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ 塚原 2009, p. 151.
- ↑ “音楽のしくみ:拍子とリズム感”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 5 “なりたち:舞の型や技法”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 鳥居本 2007, p. 94.
- 1 2 3 4 5 6 “左舞:現行の演目”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 皇室編集部 2008, pp. 243–245.
- 1 2 3 “作品と鑑賞:納曽利”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 “作品と鑑賞:太平楽”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- 1 2 3 4 “時のひろがり:解釈による温故知新”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ 雅楽事典 1989, p. 34.
- 1 2 3 4 5 “舞台のなりたち:舞台の構造”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ 上近 1970, pp. 196–222.
- 1 2 “装束と面:早わかり”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
- ↑ “装束のなりたち:襲装束”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
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- 1 2 3 4 三の丸尚蔵館 2005, p. 8.
- ↑ “面のなりたち:着面による視覚面の演出”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2026年8月21日閲覧。
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- ↑ 鳥居本 2007, pp. 215–219.
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- ↑ “Decision of the Intergovernmental Committee: 4.COM 13.49” (英語). UNESCO. 2026年8月21日閲覧。
参考文献
[編集]- 鳥居本幸代『雅楽――時空を超えた遥かな調べ』春秋社、2007年。ISBN 9784393935217。
- 宮内庁三の丸尚蔵館 編『雅楽――伝統とその意匠美』 37巻、宮内庁〈三の丸尚蔵館展覧会図録〉、2005年。
- 『皇室Our Imperial Family』編集部 編『宮内庁楽部 雅楽の正統』扶桑社、2008年。ISBN 9784594056599。
- 蒲生郷昭ほか 編『雅楽事典』小野亮哉監修、東儀信太郎代表執筆、音楽之友社、1989年。ISBN 4-276-00080-7。
- 東儀信太郎・東儀和太郎 著「雅楽曲の作法」、芸能史研究会 編『雅楽――王朝の宮廷芸能』 2巻、平凡社〈日本の古典芸能〉、1970年、67-138頁。ISBN 4582216021。
- 上近正 著「装束と面」、芸能史研究会 編『雅楽――王朝の宮廷芸能』 2巻、平凡社〈日本の古典芸能〉、1970年、196-222頁。ISBN 4582216021。
- 塚原康子『明治国家と雅楽――伝統の近代化/国楽の創成』有志舎、2009年。ISBN 9784903426297。
- 寺内直子「雅楽、アメリカを行く――1959年の宮内庁楽部アメリカ公演がもたらしたもの」『国際文化学研究』第64巻、2025年、121-155頁、doi:10.24546/0100497893。
- 磯水絵「舞楽における歌唱の終焉について――「詠」と「囀」の変容」『日本文学』第53巻第7号、2004年、11-21頁、doi:10.20620/nihonbungaku.53.7_11。
- 渡辺あゆみ「平安期の史料にみられる「御遊」の概念」『創価大学大学院紀要』第30号、2008年、449-463頁。
- 渡邊浩貴「初期鎌倉幕府の音楽と京都社会――「楽人招請型」の音楽受容とその基盤」『神奈川県立博物館研究報告―人文科学―』第47号、2020年、1-22頁、doi:10.60211/bkpmcs.2020.47_1。
- 山田淳平『近世の楽人集団と雅楽文化』吉川弘文館、2024年。ISBN 9784642043632。
- 笠置侃一 著「南都雅楽の系譜」、永島福太郎ほか 編『祈りの舞――春日若宮おん祭』東方出版、1991年、41-70頁。ISBN 4885912776。