クリスチャン10世 (デンマーク王)
| クリスチャン10世 Christian 10. | |
|---|---|
| デンマーク国王 | |
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1915年撮影 | |
| 在位 | 1912年5月14日 – 1947年4月20日 |
| 別号 | アイスランド国王 |
| 在位 | 1918年12月1日 – 1944年6月17日 |
| 全名 |
一覧参照
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| 出生 |
1870年9月26日 コペンハーゲン近郊 シャルロッテンルンド宮殿 |
| 死去 |
1947年4月20日(76歳没) コペンハーゲン アマリエンボー宮殿 |
| 埋葬 |
1947年4月30日 ロスキレ ロスキレ大聖堂 |
| 配偶者 | アレクサンドリーネ・ア・メクレンボー=シュヴェリーン |
| 子女 |
フレゼリク9世 クヌーズ |
| 家名 | リュクスボー家 |
| 王朝 | リュクスボー朝 |
| 王室歌 | クリスチャン王は高き帆柱の傍に立ちて |
| 父親 | フレゼリク8世 |
| 母親 | ルイーセ・ア・スヴェーリエ=ノーウ |
| 宗教 | キリスト教ルーテル教会 |
| サイン |
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クリスチャン10世(デンマーク語: Christian 10., 1870年9月26日 - 1947年4月20日) は、デンマーク国王(在位:1912年5月14日 - 1947年4月20日)、アイスランド国王(在位:1918年12月1日 - 1944年6月17日)。
オレンボー朝の支流であるリュクスボー家の一員であり、フレゼリク7世以来の生まれながらのデンマーク王子にしてデンマーク君主になった人物であった。父フレゼリク8世も祖父クリスチャン9世も、ともにデンマーク王冠領シュレースヴィヒ公国の公子として生まれている。弟の一人にノルウェー国王ホーコン7世がいる。妻はメクレンブルク=シュヴェリーン大公女アレクサンドリーネ。長男はのちにデンマーク国王フレゼリク9世となった。従兄にはイギリス国王ジョージ5世、ロシア皇帝ニコライ2世、ギリシャ国王コンスタンティノス1世があり、またノルウェー王妃モードは従姉であると同時に義妹でもあった。
権威主義的性格であったと評され、王権の威厳と権力の重要性を強く唱えた。民主主義を全面的に受け入れることへの彼の消極性は、1920年のイースター危機を招く結果となった。この危機においては、自らと意見が異なる民主的に選出された社会自由党(急進左翼党)内閣を罷免し、自身の選んだ内閣を据えた。これは憲法の条文そのものには合致していたが、議院内閣制の原則は1901年以来、憲法上の慣習と見なされてきた。大規模なデモ、社会民主党の組織したゼネラル・ストライキ、そして王政が転覆されかねない危険に直面し、君主は議会の意思に反して政府を存続させることはできないということ、および象徴的な国家元首へと縮小された役割を受け入れざるをえなかった。
ドイツによるデンマーク占領下において、クリスチャンは抵抗の象徴として国民の人気を集めた。とりわけ、護衛を伴わずに毎日コペンハーゲンの街路を騎行したという事実がもつ象徴的価値が、その要因であった。二つの世界大戦にまたがる治世と、ドイツ占領下においてデンマーク国民感情を結集させる象徴としての役割とによって、近代デンマークにおいて最も人気のある君主の一人となった。しかしアイスランドにおいては、デンマーク政府がドイツに屈服したことは、デンマーク王室が同島に対して有するはずであった取り決め上の防衛関係を放棄したものと受け取られた。国家元首であったクリスチャンはアイスランドで著しく不人気となり、そのことが同国が現在のアイスランド共和国として独立する一因となった[1]。
前半生
[編集]生い立ち
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祖父クリスチャン9世治世下の1870年9月26日、デンマーク王太子フレゼリクとその妃であるスウェーデン=ノルウェー王女のルイーセの第一子として、 両親の田舎の居館であるシャルロッテンルンド宮殿で生まれた[2][3]。同宮殿はシェラン島にあり、コペンハーゲンの北10キロメートル、エーレスンド海峡の岸辺に位置している。父はクリスチャン9世と王妃ルイーセの長男であり、母はスウェーデン=ノルウェー王カール15世とその王妃ロヴィーサ(オランダ王女)の一人娘であった。作家アンデルセンは誕生の翌29日、日記に「昨夜12時前、王太子妃が男児をお産みになった。今日は美しい天気のもと、街中に旗が掲げられた。」[4]と記している。
1870年10月31日、クリスチャンスボー城の礼拝堂において、シェラン島司教ハンス・ラッセン・マーテンセンにより、クリスチャン・カール・フレゼリク・アルベアト・アレクサンダー・ヴィルヘルム(Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm)の名で洗礼を受けた[5]。以後、デンマーク王室の子供のほぼすべてが洗礼に用いることとなる王室の洗礼服は、この洗礼のときに初めて使われた。この洗礼服はブリュッセル・レース製で、王太子妃ルイーセが長男の洗礼のためにベルギーで購入したものだった[6]。

クリスチャンはコペンハーゲンの宮廷で弟妹とともに育ち、アマリエンボー宮殿群の一部をなす18世紀の建物フレゼリク8世宮殿(当時の両親の公式宮殿)と、田舎の居館シャルロッテンルンド宮殿とを行き来しながら成長した。在位するデンマーク君主の男系の孫であり、かつ王太子の長男であったため、父に次ぐ王位継承順位第2位にあった。王族の子供がガヴァネスたちの手で養育されるのが通例であった当時の慣行とは対照的に、子供たちは王太子妃ルイーセ自身の手で育てられた。母の監督のもと、王子王女たちは、厳格さ、義務の遂行、配慮、そして秩序を特徴とする厳しいキリスト教中心の教育を受けた[7]。クリスチャンは弟のカールとは2歳と離れておらず、2人の王子は1887年にクリスチャンスボー城の礼拝堂で合同で堅信礼を受けた[2]。2人は家庭内で私的教師によって教育を受けた。1889年、クリスチャンはデンマーク王家の一員としては初めて、大学入学資格試験(Examen artium)に合格した。その後は当時の王族男子の慣例に従って軍人としての教育を開始した。その後、第5竜騎兵連隊に勤務し、のち1891年から1892年までランナースの士官学校で学んだ[8]。
恋愛と結婚
[編集]青年期のクリスチャンは、フランスの旧王族オルレアン家の公女マルグリットに恋をしていた。彼女は叔父ヴァルデマー王子の妃マリーの妹であった。しかしその想いは報われず、数年にわたる実りのない思慕の後で彼女は1896年にフランス第三共和政の元大統領パトリス・ド・マクマオンの息子の第2代マジェンタ公マリー・アルマン・パトリス・ド・マクマオンと結婚してしまった[9]。
1897年3月、カンヌに滞在中にメクレンブルク=シュヴェリーン大公女アレクサンドリーネと出会い恋に落ちた。彼女はメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世とロシア大公女アナスタシア・ミハイロヴナ夫妻の長女であり、妹ツェツィーリエはのちにドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の長男で最後のドイツ皇太子ヴィルヘルムに嫁いでいる。2人は1897年3月24日にシュヴェリーンで婚約し、1898年4月26日にカンヌで結婚した。アレクサンドリーネとの間にはフレゼリクとクヌーズという2人の息子が生まれた。夫妻は住居として、コペンハーゲンのアマリエンボー宮殿群のクリスチャン8世宮殿を、また夏の離宮としてコペンハーゲン北方のソーゲンフリ宮殿を与えられた。さらに1898年、デンマーク国民からの結婚祝いとして、オーフスのマーセリスボー宮殿を贈られた。1914年には、スケーエンにヴィラ・クリトゴーデンも建てている。
王太子
[編集]1906年1月29日、クリスチャン9世が崩御し、父がフレゼリク8世として即位した。クリスチャン自身も正式にデンマーク王太子となった。
国王
[編集]即位
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1912年5月14日、フレゼリク8世はドイツのハンブルクで夕刻の散策中に倒れ、68歳で崩御した。王はフランスのニースでの滞在から戻る道中であり、コペンハーゲンへ向かう前にドイツに滞在していた。父の訃報を聞いたとき、クリスチャンはコペンハーゲンにおり、41歳で王位を継承した。アマリエンボー宮殿群のクリスチャン7世宮殿のバルコニーから、首相クラウス・ビーアンセンによってクリスチャン10世として民衆に宣布された。
第一次世界大戦
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1914年に第一次世界大戦が始まると、クリスチャン10世とデンマーク政府は、デンマークは中立政策を追求すべきだと提唱した。王は、1914年12月18日にスウェーデンのマルメで開かれたいわゆる「3国王会談」に参加することによって、この中立政策を支えた。そこでは3人のスカンディナヴィア君主、すなわちデンマーク国王クリスチャン10世、ノルウェー国王ホーコン7世(クリスチャン10世の弟)、スウェーデン国王グスタフ5世(クリスチャン10世の母の従弟)が、それぞれの国の外務大臣とともに会談を行った。同会談で北欧諸国の中立について協議しこれを強調するとともに、共同宣言において、大戦中における三国の厳正中立を確認した[10][11]。1914年のこの会談に続いて、1917年11月にはクリスチャニア(オスロ)でもう一度、3国王会談が開かれた。
デンマークは実際に、大戦中その中立を維持することに成功した。しかしデンマーク政府はドイツからの圧力に屈し、イギリスの暗黙の了解はあったもののデンマーク海域に機雷を敷設した。デンマークは国際法上、領海を開放しておく義務を負っていたにもかかわらずの行動だった[12]。 1915年、デンマーク憲法が改正されて普通選挙が導入され、女性は家事使用人とともに選挙権を与えられた。王はこの憲法改正に消極的であったが、デンマーク女性協会は約2万人の参加者による行進を組織し、アマリエンボーへ赴いて王に感謝の意を表明した。彼女らに対する演説のなかで、クリスチャン10世はとりわけ次のように述べた。
女性を欠くことのできない場所が一つある。それは家庭だ。そこでの女性の力に代わるものはない。子供が家庭に寄せる愛を通してこそ、われわれ共通の家であるデンマークへの愛が目覚めるのだから[13]。
1920年のイースター危機
[編集]1920年4月、クリスチャン10世はイースター危機を煽動した。これはおそらく、20世紀のデンマーク君主制の展開において最も決定的な出来事であった。直接の原因は、かつてデンマークの封土であり、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争においてプロイセンに奪われたシュレースヴィヒのデンマークへの再統合をめぐる、王と内閣との対立であった。元来シュレースヴィヒに住むデーン人問題は長らく存在し、同地方に対するデンマークの領有主張は第一次世界大戦の終結まで続いており、ドイツ帝国が大戦に敗北したことによってこの係争の解決が可能となった。ヴェルサイユ条約の規定によれば、シュレースヴィヒの帰属は二つの住民投票によって決定されることとなっていた。一つは北シュレースヴィヒ(1971年から2006年までのデンマークのスナユラン県)における投票、もう一つは中部シュレースヴィヒ(今日ではドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)における投票である。南シュレースヴィヒについては住民投票は予定されなかった。同地は民族的にドイツ系が多数を占めており、また同地の住民感情に従って、戦後もドイツ国家の一部として留まったからである。
北シュレースヴィヒでは、75パーセントがデンマークとの再統合に、25パーセントがドイツ残留に票を投じた。この投票では地域全体が不可分の一単位と見なされ、地域全体がデンマークに与えられた。中部シュレースヴィヒでは状況は逆転し、80パーセントがドイツを、20パーセントがデンマークを支持した。この投票では各自治体が自らの将来を決定することとされ、いたるところでドイツ系多数派が優勢を占めた。これらの結果を踏まえ、首相カール・ティーオド・セーレの政府は、北シュレースヴィヒとの再統合は進めうるが、中部シュレースヴィヒはドイツの統治下にとどまるものと判断した。
多くのデンマーク民族主義者は、少なくとも中部シュレースヴィヒのフレンスブルクについては、住民投票の結果にかかわらずデンマークに返還されるべきだと考えていた。同市には相当数のデンマーク系住民が存在したこと、また将来にわたってドイツを恒久的に弱体化させておきたいという願望があったことが理由である。クリスチャン10世はこうした感情に同調し、首相セーレに対してフレンスブルクを再統合の過程に含めるよう命じた。しかしデンマークは1901年のドインツァ内閣以来、立憲君主制を遵守して運営されてきていたため、セーレはこれに従う義務はないと考えた。彼はこの命令を拒否し、王との激しいやりとりののち、数日後に辞職した。

続いてクリスチャン10世は内閣の残りの閣僚も罷免し、これを保守派の暫定内閣に置き換えた。この内閣の罷免は猛烈なデモを引き起こし、あわや革命のような雰囲気を誘発することになり、数日のあいだに王制廃止論すら公然と言われるようになってしまった。こうした事態を受けて、王はやむを得ず社会民主党の党員たちと交渉を開いた。デンマーク王室が転覆されかねない事態に直面したクリスチャン10世は譲歩して自らの立てた政府を罷免し、その年のうちに選挙が実施されるまでのあいだ、妥協的な内閣を据えた。
現在に至るまで、これは在位中のデンマーク君主が議会の全面的な支持を得ずに政治的行動をとろうとした最後の例である。この危機ののち、クリスチャン10世は大幅に縮小された自らの地位を全面的に受け入れ、その治世の最後の四半世紀を、模範的な立憲君主制の国家元首として過ごした。なお、この行動はデンマーク国王が議会の承認を得なかった最後の政治行動とされている。
第二次世界大戦
[編集]1940年4月9日午前4時、ナチス・ドイツは奇襲攻撃によってデンマークに侵攻し(デンマークの戦い)、陸海軍を圧倒し、陸軍航空隊を壊滅させた。クリスチャン10世は、デンマークが打つ手のない状況に置かれていることを直ちに理解した。領土も人口もデンマークはドイツに抵抗するにはあまりに小さすぎた。北欧の隣国とは異なり、デンマークにはドイツ軍に対して長期の抵抗を組織しうるような山脈が存在しなかった。どのような期間であれ持ちこたえられる見込みもなく、コペンハーゲン市民を空襲するというドイツ空軍からの脅迫に直面して戦闘継続を支持する将軍はただ一人であったため、クリスチャン10世とデンマーク政府全体は午前6時ごろ降伏し[14]、その代償として国内問題における政治的独立を保持することとなった[15]。ここに、1945年5月5日まで続くデンマーク占領が始まった。
弟のノルウェー王ホーコン7世、オランダ女王ウィルヘルミナ、ギリシャ国王ゲオルギオス2世、ルクセンブルク女大公シャルロット、ユーゴスラビア国王ペータル2世、ポーランド大統領ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチが、いずれも自国のナチス占領中に亡命していたのとは対照的に、クリスチャン10世はデンマーク占領の全期間を通じて首都にとどまり、デンマーク国民にとって国民的大義の目に見える象徴となった[注釈 1]。

1943年8月にドイツが戒厳令を布くまで、クリスチャンの公式演説は、占領軍への協力という政府の公式方針を反映するものであった。一方で王は国民から「精神的抵抗の象徴」と見なされた。ドイツ占領の最初の2年間、その年齢と危うい状況にもかかわらず、クリスチャン10世は愛馬に乗って護衛はおろか、馬丁すら伴わずに日々コペンハーゲンを騎行した。デンマーク人が愛国心とドイツ占領への沈黙の抵抗を示す方法として広く行われたのは、デンマーク国旗と王の王冠付き記章をあしらった小さな四角いバッジを身につけることであった[16]。この標章は「王の記章バッジ」と呼ばれた。さらにクリスチャン10世はデンマークのユダヤ人をナチスの迫害から逃すため安全な非占領国スウェーデンへ移送する費用の援助も行った[17]。
1942年、アドルフ・ヒトラーはクリスチャン10世の72歳の誕生日を祝う長文の電報を送った。王の返電は「謝意を表する。国王クリスチャン」(ドイツ語原文:Spreche Meinen besten Dank aus. Chr. Rex)とあるのみであった。「電報危機」として知られるこの返電は、侮辱と受け取ったヒトラーを大いに激怒させた。ただちにコペンハーゲンからドイツ大使が召還され、デンマーク大使はドイツから追放された。次いでドイツの圧力によってヴィルヘルム・ブール率いる政府が退陣させられ、無所属で老練な外交官であるエーリク・スカヴィーニウスを首班とする新内閣が取って代わった。ドイツはスカヴィーニウスがより協力的であることを期待していた[注釈 2]。1942年10月19日に落馬して以降、クリスチャン10世はその治世の残りの期間、ほぼ病身状態にあった[18]。1920年のイースター危機を招いた国王はその人気を大きく損なっていたが、日々の騎行、電報危機、そしてデンマーク系アメリカ人の界隈で広められた賞賛の物語によって再び人気を得、ついには国民に愛される象徴にまでなった。
アイスランド
[編集]
1918年末に成立した新たなデンマーク・アイスランド連合法は、長らくデンマーク領の一部であったアイスランドを、デンマーク王国と同君連合を結ぶ主権国家として再定義した。これによりクリスチャン10世はデンマーク国王であることに加えて、ほぼ完全な自治を有するアイスランド王国の国王ともなった。クリスチャン(アイスランドにおける公式名;アイスランド語: Kristján X)は、アイスランドを大王国の一属領として統治するのではなく、主権を有する一個の王国として扱い君臨した最初にして唯一の君主であった。1941年、ドイツによるデンマーク占領と連合国によるアイスランド侵攻を受け、アイスランド政府はクリスチャンがアイスランド国家元首としての職務を遂行していない状態にあると判断し、暫定的な国家元首として職務にあたる摂政にスヴェイン・ビョルンソンを任命した。スヴェインは以前、コペンハーゲン駐在のアイスランド公使を務めていた。
1944年、デンマークがまだドイツ占領下にある間に、アイスランド人は住民投票によってデンマーク王とのあらゆる結びつきを断ち、共和国を樹立することを可決した。こうしてクリスチャンのアイスランド国王としての称号は無効となり、スヴェイン・ビョルンソンがアイスランド議会によって初代アイスランド大統領に選出された。クリスチャンは、占領が続いている間アイスランドが独立へ向けたさらなる動きに出ることはないという言質をスヴェインから得ていたと信じていたため、手ひどく裏切られたと感じた。しかし、縁戚であるスウェーデン国王グスタフ5世の勧めに従ってこの結果を受け入れ、1944年6月17日の共和国建国の祝典に際してアイスランドへ祝辞を送った。もっとも、このようにアイスランドの独立を暗黙のうちに受け入れながらも、クリスチャンは実際にはアイスランド国王の称号を用いることを辞めず、1947年に没するまで自らの王号にこれを含め続けた。
死去
[編集]クリスチャン10世は1947年4月20日、コペンハーゲンのアマリエンボー宮殿において76歳で崩御した。亡骸はデンマーク王家の他の成員とともに、コペンハーゲン近郊のロスキレ大聖堂に埋葬された。カストルム・ドローリス[注釈 3]として、棺の上にはデンマークのレジスタンス運動の参加者たちが身につけていた布製の腕章が置かれた[19][20]。
人物
[編集]民主主義の成長期にあって、王家の威厳と権力の重要性を強調する権威主義者・統治者的傾向があったために、クリスチャン10世は必ずしも大衆の人気を得ていたわけではなかったようである。しかしながら、2つの世界大戦にわたる治世と、デンマークの民族主義およびナチス・ドイツ支配へのレジスタンス運動の英雄的象徴として果たした役割により、近代以降のデンマーク君主の中でも最も敬愛される国王の一人となった。
また、身長199cmの長身であり、歴代の国王のうち身長が計られた者では最も背が高い。
子女
[編集]1898年に、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世と大公妃アナスタジアの長女アレクサンドリーネと結婚した。クリスチャンとアレクサンドリーネの間には2男が生まれた。
- フレゼリク(1899年 - 1972年)- のちのフレゼリク9世、スウェーデン王女イングリッドと結婚
- クヌーズ(1900年 - 1976年)- 同族のデンマーク王女カロリーネ=マティルデと結婚
逸話
[編集]
1980年代のはじめに、「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」がダビデの星のついた服を着る、馬上のクリスチャン10世の写真を戦時化で印象的な写真としてフルページの広告に取り上げた。これは国王がユダヤ人を援けるサインと、占領中にナチスの迫害に苦しむユダヤ人との連帯のシンボルであったことを指摘する有名な話である(この話はレオン・ユリスの1958年のイスラエルの建国について書かれた小説『エクソダス 栄光への脱出』に部分的に伝えられ、よく知られることになった)。だが、デンマークではユダヤ人は「ダビデの星」をつけることを強制されなかったので、このサポートの出所は怪しいものとなっている。
他にクリスチャン10世が占領中に王宮となっていたクリスチャンスボー城にナチスの旗が翻っていたのを撤去させたという話がある。国王宮にドイツ国旗が掲げられているのを嫌ったクリスチャン10世はドイツの将軍を呼び、彼に旗の撤去を命じた。将軍がそれを拒むと国王は「デンマークの兵が一人で、旗を撤去しに行くでしょう」と言った。将軍がそのような兵は撃つと言えば国王は「それはできますまい。そのデンマーク兵は私だから」と言ってのけた。やむを得ず将軍はただちに旗の撤去を命じた。
武田龍夫『嵐の中の北欧』(中公文庫)p267では、旗はデンマーク国旗であり、それを下ろさせようとしたドイツの将軍に対し国王が抗議し、最後に「(ドイツ軍が下ろしたデンマーク国旗を再び掲揚しようとする兵士を射殺するというなら)私がその兵士になろう」と言った、という話になっている。
系図
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| クリスチャン9世 | |||||||||||
| フレゼリク8世 | (ギリシャ国王) ゲオルギオス1世 | ||||||||||
| (グリクシンブルグ朝) | |||||||||||
| クリスチャン10世 | (ノルウェー国王) ホーコン7世 | ||||||||||
| フレゼリク9世 | (グリュクスボー朝) | ||||||||||
| マルグレーテ2世 | |||||||||||
| フレゼリク10世 | |||||||||||
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ "Iceland: Nobody's Baby". Time. 22 April 1940. Archived from the original on 1 February 2005.
- 1 2 Thorsøe 1889, p. 529.
- ↑ Montgomery-Massingberd, Hugh, ed (1977). Burke's Royal Families of the World. 1. London, UK: Burke's Peerage Ltd. p. 71
- ↑ “H.C. Andersens dagbøger” (デンマーク語). The Royal Library, Denmark (2006年9月30日). 2006年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ↑ (デンマーク語) Allerh. approb. Program for høitidelige Daabshandling i Christiansborg Slotskirke d. 31. Oct 1870.. Copenhagen. (1870)
- ↑ “Baptismal font, basins and gowns”. kongehuset.dk. Monarchy of Denmark. 2024年2月26日閲覧。
- ↑ Bramsen 1992, p. 274.
- ↑ “Thorsgade Kaserne” (デンマーク語). 2016年3月21日閲覧。
- ↑ Jespersen 2007, p. 71-76.
- ↑ Griberg, Sara (2014年11月12日). “Trekongemødet i Malmø” (デンマーク語). altomhistorie.dk. 2017年4月2日閲覧。
- ↑ Wiberg, Jacob (2008). “Trekungamötet i Malmö 1914” (スウェーデン語). Populär Historia (12).
- ↑ “Denmark and Southern Jutland during the First World War”. ddb.byhistorie.dk. 2020年11月4日閲覧。
- ↑ Jespersen 2007, p. 235-236.
- ↑ Peter Rochegune Munch: Erindringer 7, p. 29.
- ↑ The German occupation of Denmark Archived 15 October 2013 at the Wayback Machine.
- ↑ “The History Behind the King's Emblem” (デンマーク語). Kongehuset.dk/. The Danish Royal Family (2012年11月27日). 2023年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月5日閲覧。
- ↑ Christian X gav penge til jødetransporter – Kultur| www.b.dk
- ↑ “2005 – Besættelsen – Kilder”. FaktaLink. 2007年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ↑ “The King and the Star - Myths created during the Occupation of Denmark”. 2011年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年4月5日閲覧。
- ↑ “Christian X”. The Danish Monarchy. 2010年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月25日閲覧。
参考文献
[編集]- Bramsen, Bo (1992) (デンマーク語). Huset Glücksborg. Europas svigerfader og hans efterslægt. [The House of Glücksburg: The Father-in-law of Europe and his descendants] (2nd ed.). Copenhagen: Forlaget Forum. ISBN 87-553-1843-6
- Fabricius Møller, Jes (2013) (デンマーク語). Dynastiet Glücksborg, en Danmarkshistorie [The Glücksborg Dynasty, a history of Denmark]. Copenhagen: Gad. ISBN 9788712048411
- Jespersen, Knud J.V. (2007) (デンマーク語). Rytterkongen. Et portræt af Christian 10. [The Riding King. A portrait of Christian X]. Copenhagen: Gyldendal. ISBN 978-87-02-04135-4
- Lerche, Anna; Mandal, Marcus (2003). A royal family: the story of Christian IX and his European descendants. Copenhagen: Aschehoug. ISBN 9788715109577
- Scocozza, Benito (1997). “Christian 10.” (デンマーク語). Politikens bog om danske monarker [Politiken's book about Danish monarchs]. Copenhagen: Politikens Forlag. pp. 192–199. ISBN 87-567-5772-7
- Thorsøe, Alexander (1889). “Christian, Prins”. In Bricka, Carl Frederik (ed.). Dansk biografisk Lexikon, tillige omfattende Norge for tidsrummet 1537-1814 (デンマーク語). Vol. III (1st ed.). Copenhagen: Gyldendals forlag. p. 529.
関連項目
[編集]- ノルウェーの戦い
- 西部戦線
- ヴェーザー演習作戦
- アイスランド侵攻
- ゲオルギオス1世 - 叔父・1912年から1913年当時のギリシャ国王
- ジョージ5世 - 従兄・1912年から1936年当時のイギリス国王
- ニコライ2世 - 従兄・1912年から1917年当時のロシア皇帝
- コンスタンティノス1世 - 従兄・1913年よりギリシャ国王
クリスチャン10世
オルデンブルク家分家
| ||
| 爵位・家督 | ||
|---|---|---|
| 先代 フレゼリク8世 |
デンマーク国王 1912年 - 1947年 |
次代 フレゼリク9世 |
| 新設 アイスランド王国成立 |
アイスランド国王 1918年 - 1944年 共同統治者 スヴェイン・ビョルンソン |
アイスランド共和国成立 |
- クリスチャン10世
- デンマークの君主
- エレファント勲章受章者
- ダンネブロ勲章受章者
- グライフェン勲章受章者
- 大勲位菊花章頸飾受章者
- 大チャクリー勲章受章者
- 聖オーラヴ勲章受章者
- 金羊毛騎士団員
- ガーター勲章
- バス勲章
- ロイヤル・ヴィクトリア勲章
- レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者
- オランダ獅子勲章受章者
- 聖アンドレイ勲章受章者
- 聖ウラジーミル勲章受章者
- 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者
- 白鷲勲章受章者 (ロシア帝国)
- 聖アンナ勲章受章者
- 聖スタニスラフ勲章受章者
- グリュックスブルク家デンマーク系
- アイスランド史の人物
- 20世紀ヨーロッパの君主
- 第二次世界大戦における君主
- デンマーク・ドイツ関係
- 19世紀デンマークの人物
- 20世紀デンマークの人物
- 20世紀アイスランドの人物
- 1870年生
- 1947年没